[Kim Ji-ha] 詩人, 金芝河との五十二年
[Kim Ji-ha] 詩人, 金芝河との五十二年
  • 宮田毬栄
  • 승인 2022.07.04 10:52
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  詩人金芝河 (김지하) 氏にお別れをするために, 私はソウルに来ました. 深い悔恨の思いを抱いて, 金芝河氏のいないソウルに来たのです.

  長い沈黙をつづけたまま独り逝ってしまった詩人. なぜなのですか,と問いかけることさえ不可能な現実が私を竦ませます. 足どり重い “서울길” でした.

  私が韓国を訪れるたびに自覚するこの国への愛, そこに生きる人びとへの愛は, 金芝河氏の作品を通して私のなかに生まれたものです. 金芝河氏と私の関わりは, 終始, 言葉と共にありました.

  中央公論社の編集者であった私が一九七〇年六月, 編集室の片隅で手にした「週刊朝日」に, 韓国の詩人, 金芝河の長編風刺詩「五賊」全文が掲載されていて, 私は初めて読む金芝河作品の圧倒的な言葉の力に魅了されました. 怒りと皮肉と哄笑の矢が不正と腐敗にまみれた支配者に突きささる, すさまじい破壊力を秘めた言葉の群れがありました.

  比喩の的確さ, 弾けた可笑しさが際立ち, 鋭利な風刺が全編をみたすのに, 読後には澄んだ悲哀の感情が残りました. 詩人金芝河の “天才” を感じた瞬間でした.

  「五賊」一篇によって独裁政権を震撼させた金芝河が 「反共法」違反で中央情報部に逮捕連行され, さらに, 同じ年の十二月に刊行された処女詩集『黄土』も発禁処分を受けたという事実がありました. 韓国で出版できないならば, 日本で金芝河の作品を編集出版しよう, と私は無謀にも決意したのです. 後から考えれば, それは私の運命を変えるほどの跳躍だったでしょう. 日本で出版し, 世界に金芝河の名前を知らせなければ, 韓国が生んだ稀有の詩人とその作品は, 朴正煕独裁政権のもと, 闇から闇へ葬られてしまう怖れがありました. 詩人金芝河の才能が私を動かしたのです.

  人を介して金芝河氏との接触を計り, 一年半後の七一年十二月, 日本での最初の本『長い暗闇の彼方に』は中央公論社から出版されました. 「黄土」, 「五賊」の他, 金芝河作品を網羅し, それまでの詩人の歩みが伝わる一冊になっています.

  金芝河氏からは手紙と自画像が届き, 詩人が絵を描く才にも恵まれているのを知るのです. ペンで描かれたその精悍で若々しい自画像が今は私を悲しませます. 本は予想以上の反響を呼び, 金芝河の名前は少しずつ日本のなかに浸透しつつありました.

  けれども, 平穏な日々は詩人とは無縁のようでした. 翌七二年五月, 金芝河が雑誌「創造」に風刺詩「蜚語」を発表し, 再び逮捕される事態となりました. 世界に金芝河の名前を広める出版活動だけでは十分ではない. 彼を守るための救援運動が必要なのだと私は痛感しました.

  そこで, 私は日本の文学者十数人に『長い暗闇の彼方に』を送り, 危機にある韓国の詩人金芝河を助けるための協力をしてほしいと呼びかけました. その結果, 私の願いに応じてくれたのは小田実氏ひとりだったのです. 小田さんと二人で草案を作り, 「金芝河救援国際委員会」を発足させたのは七二年六月でした.

  金芝河は肺結核の悪化を理由に馬山国立病院に強制入院させられていましたが, 韓国に入国を拒否された小田さんと私に代わって, 六月末から七月にかけて鶴見俊輔さんらが軟禁状態の詩人と面介するために馬山を訪れ, 金芝河と鶴見さんとの強い絆が生まれました.

  それから数年間の息づまる展開は, 消えない悪夢として私のなかに残っています.

  最大の危機は七四年にやってきます. 四月三日, 「民青学連」事件が起き, 治安当局は「民青学連」関係者三十四名の逮捕を発表, 指名手配された金芝河は, 「反共法」違反容疑により二十五日, 逃亡中の全羅南道黒山島で逮捕され, 七月九日, 非常軍法会議において死刑を求刑され, 十三日, 死刑の判決を受けます. 日本では死刑求刑の翌十日に「金芝河救援国際委員会」を発展させた「金芝河らを助ける会」を発足させ, 世界に救援を呼びかけました.

  「金芝河を殺すな! 釈放せよ!」という韓国大統領に送る署名の訴えは世界中に届き, 日本では, 大江健三郎, 遠藤周作, 松本清張, 柴田翔, 谷川俊太郎ほかの多くの人びとが, 海外ではサルトル, ボーヴォワール, マルクーゼ, ハワード·

  ジン, ノーム·チョムスキー, エドウィン·ライシャワーほかの多数の著名人が署名しています. 数々の集会, 署名活動, 韓国での裁判の傍聴, ハンガーストライキなどの運動により, 金芝河救援運動は韓国民主化闘争に連動していきます. 国際的な抗議に屈し, 二十三日, 死刑は無期懲役に減刑されますが, 金芝河が「刑の執行停止処分」により釈放されるのは, 一九八〇年十二月十二日でした.

  七四年以降の金芝河の受難は現実のこととして世に知らされていますけれど, 受難の内実が正確に理解されていたかどうかは疑問です. そうでなければ, 金芝河氏の孤独の死は考えられないのです. 「死ぬ前には, きっと決別の言葉の 一行は遺していこう」(「涯」)と詩の末尾に記した金芝河は, 無音のまま姿を消してしまいました. 残された者たちに果てしない「涯」を背負わせて.

  私は救援運動と平行して七五年十二月に『不帰』を, 七八年九月に『苦行』と題する金芝河作品を編集刊行しています. 『不帰』には劣勢の闘いの果て, 地下潜行する若き金芝河が書き留めた詩篇のほか, 獄中の体験記であり, 魂の解放の時を記す名作「苦行―一九七四年」など, その時点で集められた作品の数々を収録しています.

  当てもなく逃げていく絶望の日に, あるいは囚われの獄中で生まれた詩の数々は, 切実な悲しみに被われながら, 一筋の光を求めて揺れています.

  「険しく果てしない/長い道のりをたどり/疲れて村の入口に差しかかったときの/心の悲しみよ」(「雨降る夜」).

  「何もすることができない/明け方二時なのだ/あいまいな時間/この時代だ」(明け方二時). 「雪は降る/酒を飲む/干し魚の上にこぼれた/涙をかみしめる/潜み 過ぎてきたすべての道/怖れていた振舞いや わが胸の/あらゆる嘆息(なげき)を かみしめる/ひとりぼっちだ/逃れるすべはないのか/ピンも潜りぬけられぬ狭い路/ああ友よ/私はひとりぼっちだ」(「海にて」)「私は疲れ果てて真っ黒く/お前はやつれて真っ白だ 友よ/広い平野をめざした/あの朝の, そうだ/われら, あの朝の尖兵だったときの/旗であったときの/汚れた黒っぽい作業服を着て笑いながら飲んだ/ソウル駅での/あの一杯/お前の瞳のなかでは/稲穂がなみうち/私の掌のなかでは 黄土が暖かかった 友よ/そのとき, われらは二十歳だった, 生きていたのだ/いま, われらは三十歳となった/いま われらは生きているのか」(「あの朝の酒盃」). この詩に関して, 詩人は私に宛てた手紙でこう書いている. (金芝河氏は右の詩を初めのタイトル「三十歳」と呼んでいた. )「忘れません. 東京のあるホテルのロビーで示された「三十歳」という詩に対するあなたの愛を. 」(一九九九年十一月二十九日付).

  また, ある時, これも『不帰』に収録している「西大田駅」の一シーン, 「群衆の雑踏のなかで/ぼんやりと立ちつくす 私の胸をつらぬき/汽笛が鳴る/匕首のごとく私を刺してくる何者かの血走った目/なにごとも起こらぬのだ」.

  「西大田駅」について「この詩が好きで, 一度西大田駅に下車してみたい」と書き送ったところ, 「それは嬉しい.西大田駅にも木浦にも行きましょう」という詩人の伝言が届きました.

  地下に潜行し逃れ行く時にも, 向かうのは南, 故郷の地をめざす詩人の魂が切なすぎます.

  民主化は達成された, と慢心する多くの人びとに金芝河たちの初々しい素手の闘い, 苦難の逃走の日々を想像して欲しいと思います. 民主主義は不意に空から落ちて来たわけではないのです.

  辞典のように部厚い一冊, 『苦行』は獄中および法廷における詩人の闘いの全記録です. 本の帯に私はこう書いています. 「七四年四月の逮捕から, 十か月後の釈放. その一カ月後の再逮捕から七六年十二月の「最終陳述」まで, 約二年半の間に書かれ, 語られたものの全内容がここにある. 」

  その厖大な記録は従来どおり, さまざまな形で私に届けられたものです. 「獄中メモ」について私は「これらのほとんどは, 金芝河が『民青学連』事件によって無期刑に決まり, 永登浦教導所に服役していた一九七四年十一月頃から, 釈放される一九七五年二月の間に書かれたものと推定される」と書いています. 短期間に記した構想メモは小さな文字でびっしり並び, 内密の訳出作業は困難をきわめました. 私に宛てて書く折りたたまれた紙片を前にすると, いつも疲れが遠のいて行くほどの緊張を覚えました. 非力な私ひとりを頼らなければならない金芝河氏の心細さを思えば, どんなに無理を重ねても, 彼の信頼に応えたいと努力しました. 他の出版作業も当然あり, 私の三十代は苦難の連続でした. それでも, 詩人の文章が感応できる自分を発見しては, 勇気を持ちました.

  思想を裁く「反共法違反」事件裁判での詩人の闘いの記録は, 現在も私の胸を熱くさせます. その明敏さ, 並はずれた思考能力をフル回転させ, 時にユーモアさえ交えた金芝河氏の法廷での闘いは圧巻です. 長い間金芝河氏を嘲笑してきた「民主主義」者たちには, 読んでいただかなければなりません.

  とりわけ, 「最終陳述」における凄みを含んだ金芝河氏の言葉には引き込まれます. このように理路整然としながら, 時に「五賊」由来の笑いで政権を愚弄した例は他にあるのでしょうか.

  「特に, 懲役一〇年に, 資格停止一〇年の求刑は, 私には光栄であります. いま務めている終身刑をみな終えて, 死んだ後再び復活して一〇年の懲役をもう一度務めよという意味に理解して, いっそう感謝に堪えません. 」

  それに続く陳述の言葉は一転して荘重で淀みなく, 金芝河の思想の深部を伝える, すぐれて文学的なものです. 金芝河という人間の突出した言語能力を認めるしかない歴史的な陳述であると思います.

  一九八〇年五月に起きた民主化闘争における最大の悲劇, 光州事件. 教導官から事件の経緯を聞いた金芝河氏は, 眠れない夜々を過ごすなか, 現行の政治闘争の理念では社会の矛盾は解決しえないと考えるに至ります. 何よりも人間の精神の解放が必要なのだという認識です.

  金芝河氏が釈放されるのは, それから七か月後, 韓国全土に徒労感が漂う時期でした. 民主化運動は停滞し, 孤立し, 戦闘を先鋭化するグループも生まれました. 激化した民主化闘争の現場は, 七四年と同じ過激な扇動者を金芝河に求め, 沈黙する金芝河氏に短絡的に「転向者」「変節者」のレッテルが貼られたのです.

  長期の獄中生活は金芝河氏の精神と肉体を傷つけ, 閉所恐怖症が原因の病いに詩人は苦しんでいましたが, 六年の空白を埋めるがごとく, 八二年六月, 詩集『灼けつく喉の渇き』を, 十二月には『大説 南』第一巻を発表しています.

  二冊の本は即発禁. 当時, 文芸誌『海』の編集長であった私は, 翌八三年の『海』四月号に「発禁の最新作」として「大説 南」を掲載しています. そして, 金芝河氏の救援運動にも尽力された鶴見俊輔氏と大江健三郎氏に「『大説 南』を読む」という対談を試みていただきました.

  「編集後記」に私は「この間, 彼についてなされた報道のほとんどが, 金芝河氏の転向を暗示するものでした」と明記しています. それがいかに皮相な理解であるかについても.

  自己の内部に深く沈潜する金芝河氏は九一年五月五日, 盧泰愚政権に抗議して焼身自殺した若者が続出するのを憂えて, 『朝鮮日報』に「死の礼讃はやめよ!」という文章を書いています. 「非暴力の抵抗」である自死を神聖化する傾向に対して, 金芝河氏は若い生命を愛するあまり, 痛苦の言葉を投げたのです. 運動家たち, 若者たちは打撃をうけ「死者への冒涜」「金芝河の変質」「金芝河の転向」「金芝河は死んだ」と糾弾する風潮が民主化運動のなかに, 韓国社会に広がって行ったと思われます.

  その偏った金芝河観に苦い思いを抱きつつ『東亜日報』(九一年三月七日~六月二十日)に掲載した作品が回想記『横臥する石仏』です. 私が『海』の次ぎに編集した『中央公論文芸特集』(九四年春季号)では翻訳を平井久志氏に依頼し, 掲載しています. 原稿を読みながら, ここに金芝河を創った土壌, 地下水がある, と感じました. 「人間の精神の解放」は生命思想につながるものでしょう. 「日本の読者へ」として金芝河が記した「私の生涯を貫く暗さと憂鬱は幼い時から始まり, それは半島の歴史の反映で
もあった」によって, 金芝河九歳の六月で終わる回想記は陰翳を深くしています. 平井氏の翻訳は私の想像以上にすぐれていました.

  回想記『横臥する石仏』が悲惨と美しさが交錯し, 夢幻と現実がまざりあう幼年期の記憶を描いて, 世界の文学と言えるのではないでしょうか. 新しい世紀に入った頃, 金芝河氏が病気で入院されたと知った私は, 心配になって手紙を書いています. それへの返信が手元にありました.

  「宇宙の彼方まで, ともに『白い翳り』を抱いていくことが私たち二人の運命だ, という私の言葉を忘れないでおられることを確認し, 無限へと私の心が広がっていくのを切々と感じています.
  私はあなたのお言葉通りに無理をし, 四, 五か月程入院加療し, 数日前に家に戻りました. 急いていた心も安定し, 果てしなく遠い道を徐々に進もうと決断し, あなたが言われるように, 詩人, 金芝河, 美学者に復帰することを中心としようと思います.
  私の去りし三十年の間, あなたの愛と友情を過分に被り成長したこと, そして今も愛されていることを知り, すがすがしい幸福に浸っています.
  毬栄様
  二〇〇九年六月二九日 韓国一山にて 芝河拝」

  詩人の手紙はどれも詩人にしか書けない手紙でした. 心が溢れすぎていて, すべてを受け取れたかどうか不安になります. あれほど, 柔らかな心を寄せてくださったのに, なぜ私はあの時だけ「失望して, 憂いのなかにいます」と書いて送ってしまったのだろう, と自分を責めつづける九年間でした.

最後にお送りした長い手紙の日付は二〇二〇年七月八日.

  「私が二〇一三年一月にお送りした手紙は私の真実の思いでした. 『朴槿恵を支持する詩人の行動を素晴らしい』とは書けませんでした. 『失望し憂いのなかにいます』は, 詩人との長い歳月から生まれた私の誠意でした. 私の詩人, 김지하氏への尊敬と愛が込められた言葉でした.‥‥」

  金芝河氏の手にその手紙が渡ったのかどうかは知り得ません. ですから, 私は終わりの日まで後悔を背負って行くでしょう. 優しい누나として詩人の行為すべてを受け入れていればよかったのかどうか, 私はたえず苦しんできました. しかし, それは出来なかったでしょう. 私がそう思わないからです. 何が金芝河氏をそこまで追い詰めたのでしょう.

  韓国でのシンポジウムなどに出席する時, 人びとの反応に不安を覚えた経験はありました. 文学関係者も「金芝河‥過去の人でしょう?」といった反応をする人が少なくなかったのです.

  過去と言っても, 七〇年代はたかが半世紀前です. 忘れられてよいほどの昔ではないはずです.時々, 金芝河氏の握手を思い出します. 強すぎる握手. その度に, 詩人の本然の寂しさを感じました. それは『横臥する石仏』で回想される少年の, だれにも救えない孤独と重なって私には見えます.

  忘れっぽい人びとのために, 私は私の知り得た金芝河詩

  人像をこれから書かなければ, と考えはじめています.

 

 


 

 

* 《쿨투라》 2022년 7월호(통권 97호) *


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